南北アメリカ大陸に於ける黒人奴隷の一番の悲劇は、身分の違いと人種の違いが合致してしまった事だと思う。
奴隷制は世界中に在った。日本にも在った。 即ち、日本では、黄色人種が黄色人種を奴隷にしていた。 ヨーロッパでは白人が白人を、アフリカでは黒人が黒人を奴隷にしていた。 地中海世界は黒人も白人も普通に居る世界だ(古代ローマの拳闘奴隷を描いた技来静也氏の漫画「セスタス」参)。 アフリカの支配者層が、自分達の奴隷をヨーロッパの支配者層に売った。 こうして、白人の主人と黒人の奴隷が誕生した。 先日T.V.放映された「フリーダムランド」('06,米)を観る。 白人女性の子供が黒人居住地域で誘拐され、黒人刑事が捜査する。 差別の描写に過激さは無く、差別の実態を描くというテーマよりも、不可解な児童誘拐事件の物語として観てしまいそうになったり(捜索のシーンのB.G.M.が脳内でスミスの「Suffer Little Children」に差し替えられた…)。 しかし、そう見えてしまう事は認識不足なのだ。 「白人の真似してスーツなんか着込んでも、白くはなれないんだよアンクル・トムさん」 「俺も黒人だからって止められた事がある」 多くの作品でオミットされているこれ等の台詞が、この映画では有る。 子供の失踪だろうと何だろうと、捜査の際にはこのテーマが付き纏う。何にでも付き纏う。 その現実を描いたのがこの作品だ。 「8mile」と「ブルース・ブラザース」の違いは、後者はやはり幸福なファンタジーだという事だろう。
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