ネタバレ注意。
「ガドガード」がテレビ放映されたのは3年前だが、当時としても目新しくもない、既存の作品の焼き直しと言って間違い無い作品だった。 しかし、お約束パターンというのは人々から望まれるからこそのお約束であり、それが望まれるのはそもそも何故か? 物語業界じゃお約束でも、それが現実にあり得るなら、そこにどんな意味が内包されているだろう? リアリティとは臨場感だと言う者も考証の確かさだと言う者も居ようが、僕にとってはただ一点、心の襞である。 テレビ放映分がストーリーの全てなら、主人公とライバルの最後の対決は、夜逃げしようとしてる主人公ハジキ少年に、ライバルのカタナ青年が執拗に絡むも振り切られ、ポツンと取り残されるシーンという事になる。このシーンは、美形のライバル・キャラ/ダーク・ヒーロー然としていた彼も結局どこの街にも居る間違った野心を抱くチンピラの一人の過ぎなかった事を暴くものであり、彼の登場がこれで最後なら、それはとても斬新な演出だ。 しかし。 ビデオ/D.V.D.にて発売されているテレビ放映分以降のストーリー(続編ではなく、テレビ放映が中途で終了した形)のあらすじを読んで、クライマックスにハジキとカタナの対決が控えている事を知った時、感動した。 前述のシーンが、対決の最後である方が、新しくて良かったのに、結局陳腐な展開になったと思うだろうか? これが、本当に誰かの、僕等の人生の出来事だったらどうだろう? あんな風に諦念に塗れた彼等が、まだ戦う事が出来るのだ。こんな救われるハナシがあるか(夢枕獏「獅子の門」で、それぞれ最悪な青春を過ごした若者達が、空手のオープン・トーナメントに誘われていく様と似ていると思うのは、僕だけ…だろうな(苦笑))。 当時「最新型」と称された「エアマスター」と何等新機軸の無い「ガドガード」が、共に僕の最も好きなアニメであり、その甲乙は全く付け難い。 斬新である事・何の変哲も無い事など評価の対象外だ。 僕はただ感動したのだ。 *この文章は、いずれ「ガドガード」のテレビ放映以降のストーリーを全部観てからアップしようと思ってたけど、07/09のSHIN-YA君の日記(http://user.ftth100.com/shin-ya/)に触発されて書いちゃった。
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