>五十嵐大介「リトル・フォレスト」2巻(完結)が出た
>リベラルで正しく立派な結末だし何も異議は唱えない と、四方さん(http://b5.0zero.jp/bbs/index.php?uid=yomoya&dir=63&num=1)。僕もぉ~(あ、でもユウ太が嫌いだ、とは言っとく)。 …さて、今回は吉田聡「鬼のヒデトラ」の話をしとこう。 これは、奇跡の様な作品だ。不良少年ものであり、学園ものであり、青春ものであり、バトル・アクションものであり、変身ヒーローものであり、伝奇ものであるこの作品は、これらの要素を以って、“日本の田舎町の情緒っていいよね、大事だよね”というテーマを訴える事に成功している。 この作品では、「鬼」という語を「不思議」と同義語としている。曰く、 「不思議なヒデトラ…でも不思議なんてあたしはいやだな…」 曰く、 「おまえの不思議を消すのはそのヒトだ」 古来、妖怪だのと言われてる様な異形の存在は、神通力の様なものを持った人間で、そしてそんな異能も、他人よりちょっと暗い所で目が見えるだとか、ちょっと遠くの物音が聞こえるだとかいったささやかな能力が、ほんの少し強く発現したものだ、というのが、この作品の解釈だ。 主人公の「鬼」と呼ばれる能力も同様だ。 即ち、それはちょっとしたきっかけで発現もするし、すっかり消えて無くなったりもする不確かなもの。 だから、そんな能力を有する主人公・千葉秀虎少年は、荒っぽい喧嘩小僧なのに、何となく存在が朧げな、不思議な少年として描かれる。 「鬼」という単語の持つ、激しく荒々しいイメージと、淡く儚いイメージの両方を見事に体現している。「鬼のヒデトラ」なんて、単純なタイトル…じゃなかったって実感させられる。 記紀や柳田の考証とは全く無縁のこの作品が、伝奇ものとして最も的を射てるって、どういう事よ? 伝奇漫画の多くは繊細一辺倒だ。もはや繊細ならぬ脆弱だ。 ヒデトラ最終決戦で、鬼としては未熟な主人公は敵の鬼の幻術に翻弄されながらも、彼の正体が喧嘩などした事も無いお坊ちゃんだと知るや、取っ組み合いなら自分が上だと気付くのだ。 一番単純な形で、肉体性を伴っている。 10月より、漆原友紀「蟲師」のT.V.アニメ版が始まる。この作品は好きだが、スタッフの解釈によってはただただ線の細い作品になっちまう事だろう。
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