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「カウボーイビバップ」は鼻についた。「サムライチャンプルー」は好きだがそう言うのには抵抗がある。何故か。アキバ系コンプレックスから来る嗜好の様に思えるからだ。しかし。
「N・H・Kにようこそ!」のO.P.のラウンド・テーブルの歌とまるで信藤三雄氏的ビジュアルには、違和を感じない。 そう、渋谷系―と言うと凄く語弊がある―『米国音楽』系の多分に趣味的な音楽は、そもそも極めてオタク的なものだ。 六畳一間の狭い世界の住人のものなのだ。 そして、原宿のひどくマニアックな女の子達100人位にあのフリッパーズが“発見”されたのは、もう15年以上前。 '95~'96年の渋谷系ブームの時には、ああ、流行っていうのはオタクの後を5~6年遅れて追ってくるものなのか、と痛感した(痛感―そう痛々しかった。サムかった!)。今、ズボンの裾を片方だけ捲り上げている若者達を見るがいい。ヒップホップやブラック・カルチャーに於ける意味合いを知らずにそうしている者には訊いてみたい。自分自身の美的感覚に照らしてそれをカッコイイと本当に思うのか、そして「それは最新型なのかい」(by森さん)と(ウータン・クラン「Enter the Wu-Tang 」の中ジャケでメンバーがこの格好をしてるけど、このアルバムが発売されたのは'93年だぜ!)。 メイン・ストリーム以外のジャンク・カルチャーの全ては僕等オタクのものだ。流行は、僕等の文化の上澄みだけを軽く掬い取って去っていく。 今回、「N・H・Kにようこそ!」のO.P.で僕等はそれを僕等の手に取り戻したのだ(E.D.については議論の余地ナシ!)。 ライト・ノベルという語の登場の前だったか後だったかは忘れた。
松枝蔵人氏のその後は知らない。「パンゲア」も「瑠璃丸伝」も知らない。そう、「聖エルザクルセイダーズ」の話だ。 全4巻(角川スニーカー文庫,1988~89)の内第4巻目は外伝的なエピソードであり、1~3巻が一続きの長編となっている。 ミステリーを読まない僕がこの作品がミステリーとしてどれ程優れているかは言えないが、一つ語っておきたい事がある(但し、全く当時読んだ記憶だけで)。 あくまでも気弱でおとなしい少女が主人公のミステリー小説であるこの作品が、バトル・アクション劇画並みの格闘描写と設定を有している点だ。 繰り返すが、本作はミステリーであって、格闘シーンは本筋ではない。にも拘らず、時折挿入される暴力シーンに於いて本格格闘もの風の描写がされ、武術とその各流派の相関関係等凝った設定が明示される(但し、登場する各流派名は恐らく全て架空のものだ。「拳児」以降、何が勘違いされたか実在の流派を作品に登場させる事が当たり前になったが、MEE氏が「小鉄の大冒険」第1巻で語っている様に、一昔前まではそれはタブーとされていた。「拳児」原作者・松田隆智氏は日本の中国武術研究の第一人者であって、他の作家とは立場が違う)。 ミステリー小説であるこの作品にあっては、「空手の達人の私立探偵」の空手や「柔道の強い刑事」の柔道程度の役割のものに、これ程の描写がなされている。何と贅沢なのだろう。 無論、その他の要素が蔑ろにされている訳では全くない。武術の設定・格闘の描写など本筋ではないのだから。 凄く簡単に言ってしまうと、この小説は凄く面白かった。 しかし、松枝蔵人氏のその後を僕は知らない。 p.s.これが黒点老師こと伊東岳彦氏の出世作だって話もしといた方がいいのか? 最近新しいものに替わってしまったが、「ウィッチブレイド」の旧E.D.、主人公を演じる能登麻美子氏の歌う「あしたの手」を僕は割と好きだったのでC.D.を買ってみた。
驚いたのはカップリング曲「Spring Summer,Fall」。インターネット・ラジオ「ウィッチブレイディオ」主題歌だというこの曲は、「あしたの手」と共に橋本由香利氏によるものだが…。 ポップスにラップをフィーチャーする際の模範例は、もう10年も前からスモール・サークル・オブ・フレンズによって提示されているが、誰も見向きもしなかった。 果たして、悪趣味な歌謡ラップが芸能界に蔓延した。アニ・ソンにも幾等か散見する。 そんな中、この「Spring Summer,Fall」は、流行りものを取り込むにしたってやり方ってもんがある事を見せ付ける。 主人公役能登氏と娘役の神田朱未氏がボーカルを取るこの曲は本編声優によるキャラクター・ソングでもあって(現在のストーリー展開に照らして聴くと泣けてくる)、つまり正真正銘のアニ・ソンだ。 「サムライチャンプルー」のサウンド・トラックは純然たるヒップホップ盤で、アニメのB.G.M.集ではやはりなかったのだ。 ネタバレ注意。
「ガドガード」がテレビ放映されたのは3年前だが、当時としても目新しくもない、既存の作品の焼き直しと言って間違い無い作品だった。 しかし、お約束パターンというのは人々から望まれるからこそのお約束であり、それが望まれるのはそもそも何故か? 物語業界じゃお約束でも、それが現実にあり得るなら、そこにどんな意味が内包されているだろう? リアリティとは臨場感だと言う者も考証の確かさだと言う者も居ようが、僕にとってはただ一点、心の襞である。 テレビ放映分がストーリーの全てなら、主人公とライバルの最後の対決は、夜逃げしようとしてる主人公ハジキ少年に、ライバルのカタナ青年が執拗に絡むも振り切られ、ポツンと取り残されるシーンという事になる。このシーンは、美形のライバル・キャラ/ダーク・ヒーロー然としていた彼も結局どこの街にも居る間違った野心を抱くチンピラの一人の過ぎなかった事を暴くものであり、彼の登場がこれで最後なら、それはとても斬新な演出だ。 しかし。 ビデオ/D.V.D.にて発売されているテレビ放映分以降のストーリー(続編ではなく、テレビ放映が中途で終了した形)のあらすじを読んで、クライマックスにハジキとカタナの対決が控えている事を知った時、感動した。 前述のシーンが、対決の最後である方が、新しくて良かったのに、結局陳腐な展開になったと思うだろうか? これが、本当に誰かの、僕等の人生の出来事だったらどうだろう? あんな風に諦念に塗れた彼等が、まだ戦う事が出来るのだ。こんな救われるハナシがあるか(夢枕獏「獅子の門」で、それぞれ最悪な青春を過ごした若者達が、空手のオープン・トーナメントに誘われていく様と似ていると思うのは、僕だけ…だろうな(苦笑))。 当時「最新型」と称された「エアマスター」と何等新機軸の無い「ガドガード」が、共に僕の最も好きなアニメであり、その甲乙は全く付け難い。 斬新である事・何の変哲も無い事など評価の対象外だ。 僕はただ感動したのだ。 *この文章は、いずれ「ガドガード」のテレビ放映以降のストーリーを全部観てからアップしようと思ってたけど、07/09のSHIN-YA君の日記(http://user.ftth100.com/shin-ya/)に触発されて書いちゃった。 某団体競技の選手だった同僚が、K-1選手のインタビューを観て、「何で格闘技の選手はこういう負け惜しみみたいな事しか言わないんだ」と言って笑った事がある。
全くだ。何故なんだ? それは、そのアイデンティティこそが彼等の全てだからだ。そのアイデンティティの為にそもそも彼等は闘っているのだ。 倉田英之・okama「クロスロオド」(「CLOTH ROAD」)の世界観は手厳しい。神様なんて居ない世界では、貧民層の居住区はどこもスラムの様で、支配層は残酷だ。それは悪い事でも酷い事でもない。それが世の理だ。僕等の知る世界を“肯定”の色眼鏡を外して見た世界観だ。 そこで行われる競技「WAR-KING」は地下プロレスの様にキナ臭く残酷だ。注目すべきは、出場者達―モデルとデザイナー(闘うのはモデルだが、デザイナーはいわゆるセコンド以上の役目を負う)―の自意識だ。 主人公達の対戦相手は、主人公達を確かに気に入っていたのにも拘わらず、主人公達がある程度以上の健闘をすると途端に牙を剥く。例え好きな相手でも、噛み付いてくれば許さないのだ。 これはリアルだ! 考えてみれば、ファッション・モデルにして格闘家なのだ、その自意識の過剰さは想像に全く難くない。 こういう風に描かないのであれば、人と人が闘うハナシは描くな、と思わせる作品の一つに数えられる。 もう一つ。 ファッション・モデルとデザイナーというテーマの作品に、okama氏が起用されたのは正に適材適所。 okama氏の最初の単行本『めぐりくるはる』を、書店だろうと古書店だろうと見付けたなら、購入をオススメする。 来月より方針を変更します。
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