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今回の「かみちゅ!」(第10話 「ふしぎなぼうけん」)の七福神バンド、やけにインディーズ・バンド・サウンドっぽくて驚いた。
勝った方じゃなく負けた方が、「国民の意志ですから」って言うのは、何かムカツクな。
僕はあんたらに入れたんだっつーの! 支持した甲斐も無い。 格闘家なみの負け惜しみを言ってもらいたいものだ。 勿論、勝った方もよく言うぜ。僕はあんたらに入れてない。なのに「国民の意志」だと? 国民とは? 僕の事だ。そしてあんたらには入れてない。 とまぁそれはいいんだが(よくないが)、権利とは、“それを行使する事としない事が選択肢として同格である”事を言う訳だ。 権利とは義務じゃない(変な日本語になっちゃった)。 選挙に行くべし、とは、僕等の権利を有効に行使していこう、という僕等主体のハナシであって、義務の様に捉える事は体制への盲従にも似る、とは言い過ぎか。 たった一回、投票箱に用紙を挿入しなかったからって、君の町から郵便局が撤退(例え話。僕がそんな危惧を抱いたって訳ではない)した時、「不便だなぁ」も言わない気か? 僕達を駆り立てるものは悪政という現実であって、権利を義務の様に捉えさせようとする強迫観念であってはいけない。 …しかし政治になーんの意見も無いクセに、我ながらよく言うな(苦笑)。 高橋慶太郎「オーディナリープラスマイナス」の連載は再開しないのか?
「的場伊万里。それがショートカットで小柄な「武器」の名前」 とは、今は亡き『アフタヌーン シーズン増刊』vol.11(2002.5.)に載った上掲作品の第1話に付されたアオリだ。 驚いたのは2つ目のエピソード(上掲誌vol.12,13)、高校生の犯罪グループと対決した時だ。 普通、プロの本物の殺し屋が主人公の作品では、そういう世界に首を突っ込んだ素人の犯罪者は、おイタをしちゃイカンと懲らしめられ、主人公との格の違いを見せ付けられるものだが、この作品は違う。 「売人と渡り合って“こっち”の世界を垣間見てそこに安らかな境地があるとでも思ったの?」 「……どこへ行ったって何にも見えやしねえよ。特にテメエはな」 とか、 「殺し屋の厭世的な語りをタラタラ聞けるほど私は寛容じゃない」 とか、敵役の高校生達は、自分達は犯罪者ではあるけれども、あくまで表の世界に居場所を持つカタギの人間である、という立場から、本物の裏社会の住人である主人公を軽蔑してみせるのだ。主人公も、その事に負い目を感じている。その意味で、彼等と主人公は同格である。 少女が主人公のアクションものとしての説得力は十二分だ。 これがアフタヌーン・シーズン増刊に描かれていた同時期、今は亡き「ヤングマガジン アッパーズ」に藤沢とおる「ローズ・ヒップ・ローズ」が連載されていたが、こっちはもはやイロモノにしか見えなかった。 2005-07-29「マイナー誌をたらい回しにされた挙句、掲載誌のリニューアルで打ち切り…ふざけるな!!」(長ぁ~)の項で、美少女を本当に楽しもうと欲すれば、ストーリーは寧ろその為に野太くなる、という話をした。
最近、成田美名子「サイファ」を読み返して思うのは、この漫画はそもそもは美少年を楽しもうという主旨のものだって事。それは間違い無い。 しかし、そのテーマに根拠=説得力を持たせようとする事によって、この壮大な人間模様が描かれるに至ったのだ。 成田氏の説得力がハンパじゃない事は、「美女」と見紛うルックスをし、ファッション・モデルのバイトをしているが、空手と柔道の黒帯を有し(ニューヨークが舞台の物語で、だ。将来の夢を問われ「日本武道館」と答え、ミュージシャン志望と思われたが、そうじゃなくて…というシーンは笑える)、性格はどっちかっつーと腕白小僧…というスーパー・ボーイである続編「アレクサンドライト」の主人公が、読者が感情移入する悩み多き普通の青年として描かれてる事にも表れている(これは大変な驚異だよ? 余談だが、格闘技の解釈には正直違和感を覚えるも、そもそもラスト・エピソードがフルコンタクト空手の大会なんて少女漫画が他にあるとも思えない)。 “結局、美少年・美少女しか印象に残っていない”などと言わせない骨太ドラマが美少年・美少女もののジャンルに存在している。 流行語の一つとして、「萌え」という単語を盛んに取り上げる一般週刊誌なんかにゃ理解出来っこない世界がそこにある。 >五十嵐大介「リトル・フォレスト」2巻(完結)が出た
>リベラルで正しく立派な結末だし何も異議は唱えない と、四方さん(http://b5.0zero.jp/bbs/index.php?uid=yomoya&dir=63&num=1)。僕もぉ~(あ、でもユウ太が嫌いだ、とは言っとく)。 …さて、今回は吉田聡「鬼のヒデトラ」の話をしとこう。 これは、奇跡の様な作品だ。不良少年ものであり、学園ものであり、青春ものであり、バトル・アクションものであり、変身ヒーローものであり、伝奇ものであるこの作品は、これらの要素を以って、“日本の田舎町の情緒っていいよね、大事だよね”というテーマを訴える事に成功している。 この作品では、「鬼」という語を「不思議」と同義語としている。曰く、 「不思議なヒデトラ…でも不思議なんてあたしはいやだな…」 曰く、 「おまえの不思議を消すのはそのヒトだ」 古来、妖怪だのと言われてる様な異形の存在は、神通力の様なものを持った人間で、そしてそんな異能も、他人よりちょっと暗い所で目が見えるだとか、ちょっと遠くの物音が聞こえるだとかいったささやかな能力が、ほんの少し強く発現したものだ、というのが、この作品の解釈だ。 主人公の「鬼」と呼ばれる能力も同様だ。 即ち、それはちょっとしたきっかけで発現もするし、すっかり消えて無くなったりもする不確かなもの。 だから、そんな能力を有する主人公・千葉秀虎少年は、荒っぽい喧嘩小僧なのに、何となく存在が朧げな、不思議な少年として描かれる。 「鬼」という単語の持つ、激しく荒々しいイメージと、淡く儚いイメージの両方を見事に体現している。「鬼のヒデトラ」なんて、単純なタイトル…じゃなかったって実感させられる。 記紀や柳田の考証とは全く無縁のこの作品が、伝奇ものとして最も的を射てるって、どういう事よ? 伝奇漫画の多くは繊細一辺倒だ。もはや繊細ならぬ脆弱だ。 ヒデトラ最終決戦で、鬼としては未熟な主人公は敵の鬼の幻術に翻弄されながらも、彼の正体が喧嘩などした事も無いお坊ちゃんだと知るや、取っ組み合いなら自分が上だと気付くのだ。 一番単純な形で、肉体性を伴っている。 10月より、漆原友紀「蟲師」のT.V.アニメ版が始まる。この作品は好きだが、スタッフの解釈によってはただただ線の細い作品になっちまう事だろう。 ロマンスカー(小田Q)の、「グリーン席」、どう思う?
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